普門山定光院 松尾寺(飛行観音)

滋賀県米原市上丹生2054

本尊・十一面観世音菩薩
 天台宗。  寺伝によると,天武天皇9年(680)に役の行者が難行苦行を求めて入山したと伝えられる霊地。後,神護景雲3年(769)に 高僧宣教がこの松尾山と霊山の辺りに霊仙寺7ヶ寺を創立したその1つで今も只1つ残る。平安時代前期(元慶)役の行者の山間 修行の遺風を慕い,この松尾山の霊地を愛したのが伊吹山寺松尾童子で,ここに堂舎を起こして寺の興隆に力を注いだ。江戸 中期頃まで当寺は栄え,坊は56にも達し松尾村といわれ,石高60余石の地であった。江戸中期の明和頃から有栖川宮職仁親王 に,毎年ご祈祷礼とお茶を献上した習わしがあり,元禄の著に「松尾村は 村家なし(=檀家なし) 残らず坊持ち也 坊中能 く煎茶を製す 俗に『松尾茶』と称し名産とす」とある。その後明治時代末には,松尾寺村も上丹生村と合併し,曼荼羅堂と 鎌倉中期の石塔九重の塔や,松尾寺の七不思議と呼ばれる歴史の遺産が残っている。当初は法相宗に属する寺院であったが, その後天台宗に改宗。
 本堂は今から400年前兵火によって消失。その後建物は彦根藩主井伊家の庇護を受け,寛文年中 (1622-72)再建された。しかしながら,昭和56年(1981)1月の豪雪により本堂崩壊し,現在山上には,曼荼羅堂があり,また, 旧本堂が豪雪で倒壊してから数十年たち,寄進により,平成23年(2011)5月には資料館が建設,翌平成24年(2012年6月17日に 松尾寺新本堂完成した。
 近江西国33観音13番札所。

2014年6月08日
 豪雪で倒壊したが,やっと一昨年再建されたので参拝して 来ました。

木彫りで有名な町ですので,木彫りの置物で迎えていただきました。
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再建された本堂 拡大



霊仙三蔵
 天平宝字3年(759)に息長氏丹生真人族の長子として,霊山山麓の地に生まれたといわれている。幼くして 仏門に入り,金勝寺別院霊山寺(霊山7ヶ寺-松尾寺,安養寺他)から奈良の大寺興福寺に入山,得度され,延暦23年(804), 最澄や空海と共に当時の世界文化の中心地,唐の長安に仏教求法のために唐に渡る。その後,最澄や空海は相次いで帰国したが, 霊仙は卓越した才によって,既に梵語(サンスクリット語)を修得していたので,当時の大唐国憲宗皇帝に認められ,石山寺で 発見された『大乗本生心地観経』の筆受並びに訳語の重責を果したことで『三蔵』の称号を贈られた[三蔵の称号=インドの 国のお釈迦様の教えを書き留めた梵語(サンスクリット語)の経典梵夾を漢語に訳し,経典に編する訳経は困難な作業。三蔵は 「経,律,論」に精通した者に授けられる号。号を賜った高僧は,仏教発祥の地インドでは般若他4名,中国では玄奘他1名, 西域で1名,日本で1名と,世界でわずか8名]。霊仙は三蔵法師の号を賜った日本人唯ひとりの高僧であり,大秘法『大元帥 明王法』を日本に伝えたのも霊仙。憲宗皇帝が暗殺され,仏教徒弾圧が日に日にひどくなると,霊仙は長安を逃れ五台山に 隠棲した。内供奉僧という皇帝の側近くにあって相談役を勤めた高僧であったため,再三の帰国願いも許されず,天長4年 (827),五台山の南,霊境村霊境寺にて68歳の生涯を閉じた。
 霊仙三蔵の事跡は,嵯峨天皇との交流(続日本後記)や, 慈覚大師円仁の『入唐求法巡礼行記(840)』,また大正2年(1913)に石山寺の経蔵で発見された『大乗本生心地観経』によって, 明らかにされた。望郷の念を抱きつつ,生涯を閉じた霊仙三蔵は,霊境村の人々によって手厚く葬られたといわれている。
霊山三蔵堂 拡大 三蔵堂内 拡大
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2012年2月19日 昭和56年の豪雪のため本堂など倒壊,醒ヶ井駅近くの仮に安置された。

松尾寺政所 拡大  この玄関は,明治26年(1893)に竣工した醒井村立醒井尋常高等小学校の玄関。昭和36年 (1961), 名神高速道路敷設に伴い,小学校が改築されるときに,当時の松尾寺住職はこの貴重な建造物をここに移築。後方の 建物は大正2年(1913)に建てられた料理旅館「醒井楼」でしたが,昭和27年(1952)に無住になったところ,当時の住職は松尾寺 山頂より寺仏・寺宝をこの中山道の街道筋に移し,松尾寺政所として活用してきた。