長等山 園城寺(三井寺)

滋賀県大津市園城寺町

本尊・弥勒菩薩
 天台寺門宗総本山。  寺伝によると,弘文天皇の皇子・大友与太王が田園城邑を投じて建立,天武天皇より「園城」の勅願を賜る。9cに唐から帰国した 留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興。三井寺は平安時代以降,皇室・貴族・武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが,10c頃 から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し,比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には 豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが,こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されて きたことから,三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
 起源については,大津京を造営した天智天皇は念持仏の弥勒菩薩 像を本尊とする寺を建立しようとしていたが,生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱の ため,25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は,父の菩提のため,天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の 建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は,朱鳥元年(686)この寺の建立を許可し,「園城寺」の寺号を 与えた。「園城」という寺号は,大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて 名付けたものという。なお,「三井寺」の通称は,この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから 「御井」(みい)の寺といわれていたものが転じて三井寺となったという。現在の三井寺には創建時に遡る遺物はほとんど残って いない。しかし,金堂付近からは,奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており,大友氏と寺との関係も史料から裏付けられるた。
 他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる,一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年), 三井寺初代長吏に就任し,その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが,智証大師円珍である。円珍は,弘仁5年(814),讃岐国 那珂郡(香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄,母方の姓は佐伯氏で,円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)に あたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は,15歳で比叡山に登り,初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認の 正規の僧となり,円珍と改名した。その後,比叡山の規定に従って「十二年籠山行」(12年間,比叡山から下りずにひたすら修行 する)を終えた後,大峯山や熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺は修験道とも深い繋がりを持っている。 仁寿3年(853)には唐へ留学して6年間,各地で修行。青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858), 円珍は多くの経巻・図像・法具を携えて日本へ帰国した。翌貞観元年(859),大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を 設置。寺を整備して修行の道場とすると共に,唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866),太政官から円珍に 伝法の公験(くげん,証明書)が与えられた。顕教,密教に加えて修験道を兼学する円珍の伝法は,これによって政府の公認を 得,天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868),円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任。 以後,没するまでの24年間,その地位にあった。円珍の没後,比叡山は円珍の門流と,慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ, 両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1cあまりを経た正暦4年(993)には,円仁派の僧たちが比叡山内にあった 円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり,両派の対立は決定的となり,円珍派は比叡山を下りて,三井寺に移った。比叡山延暦寺を 「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから,両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山 宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081)を始め,中世末期までに大規模なものだけで10回,小規模なものまで含めると 50回にも上るという。三井寺は,平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め,中でも藤原道長,白河上皇らが深く帰依したことが 知られている。これら勢力者からの寄進等による荘園多数を支配下におき,信州善光寺も荘園末寺として記録に著れる。中世 以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は,源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く,源頼政が平家打倒の 兵を挙げた時にはこれに協力し,平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝の意思を継いだ北条政子もこの方針を 継承し,建保元年(1214)に延暦寺に焼き払われた園城寺を大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京の御家人に命じて直ちに再建 させている。しかし,園城寺で僧侶として育てられていた源頼家の子公暁が叔父である源実朝を暗殺するという事件を起こした ために,以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが,北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当に就任すると再興され,続く南北朝の 内乱でも北朝・足利氏を支持したことから,室町幕府の保護を受けた。両幕府のこの厚遇は,強力な権門である延暦寺の勢力を 牽制するために園城寺に対して一定の支援をすることが必要であると考えられていたからだといわれている。明治維新後は 天台宗寺門派を名乗っていたが,1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。
 国宝指定名称は「絹本著色不動明王像」。 通称「黄不動」と呼ばれ,高野山明王院の「赤不動」,青蓮院の「青不動」と共に日本三不動の1つに数えられる,古来著名な画像で ある。「金色不動明王」とも呼ばれるこの像は,承和5年(838),比叡山で籠山修行中の円珍(当時25歳)の前に忽然と現れ,「自分は 金色不動明王である。仏法の真髄を伝える汝(円珍)を守護するために現れた。」と告げたとされる。その後,この不動明王は 円珍が唐への航海の途上,海賊に襲われそうになった時に出現するなど,円珍の生涯の危機に際して現れたとされ,円珍の守護 神的な性格をもっていたと思われる。大きさは178cm×72cm。平安時代初期,9c頃の制作と推定されているが,近年修復が行われ 唐時代の作とする説も出ている。不動像は両眼をかっと見開き,上半身裸形,筋骨隆々とした姿に表される。背景を描かず, 像は画面一杯に描かれる。像の足下には台座がなく,虚空を踏まえている。頭髪に弁髪を造らない点など,通常の不動明王像と は図像的にかなり異なるものである。三井寺では宗祖ゆかりのこの像を厳重な秘仏としており,出版物への写真掲載を厳しく 制限している。かつては伝法灌頂という密教の儀式を受けた者にのみ黄不動像の拝観が許されていたが,昭和時代以降,在家の 一般信者も参加できる「結縁灌頂」という儀式が何度か実施され,その際に黄不動像拝観の機会が与えられた。
  西国33観音14番・西国薬師49霊場48番(別所・水観寺)・江州33観音4番・近江西国33観音5番・神仏霊場巡拝の道147番(滋賀15番) 札所。

2016年8月02日
仁王門 拡大 観音堂 拡大 観月舞台 拡大

2014年12月08日
大 門 拡大 釈迦堂 拡大 三井の晩鐘 拡大

金 堂 拡大 堂前灯籠(園城寺金堂無名灯籠) 拡大 堂前灯籠
天智天皇が大化の改新で蘇我氏一族を誅し,その罪障消滅のため天皇が自らの左薬指(無名指)を 切り,この灯籠の台座下に収めたと伝えられている。

閼伽井屋 拡大
閼伽井屋
閼伽井とは,仏前に供養する水を汲む井のことで,閼伽井屋はその覆屋と建て られたもの。
 建物は桁行き2間・梁間2間・向唐破風造の檜皮葺,慶長5年(1600)に再建。内部には天智・天武・持統の3天皇の 産水となり,三井寺の名の起こりとなった湧泉が石組の中から湧き出ている。

熊野権現社 拡大
熊野権現社
智鐙大師が入唐求法され,法華・密教の奥義を究め大峯・熊野三山に入峯練行 された事跡に則り,平治元年(1159)に当地に熊の権現を勧請し,三井修験道の鎮神とされた。現社は天保8年(1837)の再建。

霊鐘・弁慶の引き摺り鐘 拡大
弁慶の引き摺り鐘
名高い大鐘。伝説によると,承平年間(931-38)に田原藤太秀郷が三上山の 大ムカデを退治した功により,琵琶湖の龍神から貰い受けた鐘を三井寺に寄進。
 三井寺が比叡山と争ったときに,比叡の 荒法師・武蔵坊弁慶が三井寺に攻め入り,この鐘を奪って比叡山まで引き摺り上げて撞いてみると,「イノー,イノー」(帰りたい) と響いたので,「そんなに三井寺に帰りたいのか」と谷底に投げ落としたいう。そのときのものと思われる引き摺った疵痕や ヒビが今も残っている。その後,この鐘は三井寺に凶事が迫ったときには,前兆として鐘の表面に汗をかき,撞いても音を 出さなかったといわれ,三井寺を鎮護する「霊鐘」として大切にされている。

さざ浪や 三井の古寺 鐘はあれど  みかしにかへる 音はきこえず  (三井寺法印定円)

弁慶の汁鍋 拡大
弁慶の汁鍋
江戸時代の観光ガイドブック『近江名所図会』にも「弁慶の汁鍋」として紹介されている。 寺伝によると,武蔵坊弁慶が所持していた大鍋で,三井寺の大鐘を奪い取ったときに残していったものと伝えられている。 また,僧兵たちが用いたことから「千僧の鍋」ともいい,鋳鉄製の大器で,三段に鋳継ぎされ,上段には竃にかけるための上縁が ついている。

一切経蔵 拡大 八角形の輪蔵(回転書架) 拡大
一切経蔵
一切経蔵は,仏教のすべての経典(一切経)を納める施設,この経蔵には 版木の一切経が収められている。
桁行1間・梁間1間・一重・宝形造・檜皮葺の禅宗形式,裳階をつけているため柱間が3間3間, 屋根が二重に見える。なお,この経蔵は山口県の国清寺にあったものを慶弔7年(1602)に毛利輝元によって移転されたものと いわれている。

三重塔
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園城寺塔婆(三重塔)
元大和国(奈良県)の比曽寺(現在の世尊寺)にあった東塔を慶長6年(1601)に 移したもので,大和地方における中世の塔の風格を持っており,鎌倉時代和洋の様式を伝える南北朝時代頃の建築とされる。 3間3重の塔婆形式で,本瓦葺きの屋根をもち,各重の落ちも大きく,初重目に縁をつけている。二重目,三重目に菱講師を用いる ものは珍しい。
唐院 灌頂堂 拡大

長日護摩堂 拡大
長日護摩堂
寺伝によると,後水尾天皇(1611-29)の祈願により建てられと伝えられる。 桁行3間・梁間3間・宝形造・本瓦葺,全体として簡素な建物で,正面は桟唐戸, 両脇を連子窓,両側面の正面より舞良と,ほかは背面を含めて横羽目板壁。

村雲橋 拡大
村雲橋
開祖・智證大師がこの橋を渡っているとき,中国の青龍寺が焼けて いることを聞き,閼伽井の水を以ってまくと橋の下から村雲が湧き起こり,中国に向かって飛び去ったが,翌年,青龍寺から 鎮火のお礼の使者が来たという。

別所・微妙寺(湖国十一面観音1番札所) 拡大 百体観音堂 拡大

観月舞台 拡大
謡曲「三井寺」と観月舞台
駿河国(静岡県)清見ケ関の女が子買いにさらわれた わが子を捜し訪ねて,京都・清水寺参籠の霊夢で三井寺へ参れと告げられる。時まさに中秋の名月。三井寺では,住僧が弟子・ 千満らを連れて講堂の庭での月見に出る。そこへ,子を失った哀しみに心を乱した女が到って,名月に浮かれ,龍宮から持ち 帰ったと伝わる名鐘を,龍女成仏にあやかって自分も撞きたいと近づく。住僧は制止しますが,狂女は中国の古詩を持ちだして ,詩聖でさえ,名月に心を狂わせて,高楼に登り鐘を撞くというのに,ましてや狂女の私がと,鐘を撞き,舞います。「初夜(= 宵)の鐘を撞く時は諸行無常と響くなり,後夜(=深夜)の鐘を撞く時は是生滅法と響くなり, 晨朝(じんじょう)(=明け方)の 響きは生滅滅己, 入相(=夕暮れ)は寂滅為楽と響きて」。参籠し,行方知らずになった。
 弟子の千満に促されて住僧は 狂女に素姓を尋ねる。千満・狂女の応対があって,狂女は千満がわが子と知り,母子は再会。めでたし,めでたし。「かくて 伴なひ立ち帰り親子の契り尽きせずも富貴の家となりにけりげにありがたき孝行の威徳ぞめでたかりける」。

観音堂 拡大 鐘楼堂
拡大

別所・水観寺 拡大 本尊・薬師如来立像 拡大
別所・水観寺
西国薬師霊場第48番札所。長久元年(1040),明尊大僧正によって創建された 園城寺の五別所寺院のひとつ。別所寺院とは,平安時代から仏法を布教し,多くの衆生を救済するために本寺(本境内)の周辺に 設けた別院の。現在の本堂は,明暦元年(1655)の再建で,昭和63年(1988) に現在地に移築。本尊,薬師如来は,一切衆生を 病苦,災難から救済する仏として,いまも人々の尊崇をあつめている。



2012年2月18日 あいにくの雪が降る日でした。
仁王門
一切経蔵(一切経を納める八角輪蔵)

弁慶の引き摺り鐘 弁慶の汁鍋 雪の三重塔



2009年10月18日 西国33所結縁総秘仏本尊ご開帳(花山法王1000年御遠忌)。
2009年8月1日
園城寺別所(別院)・微妙寺
本尊・十一面観世音菩薩
圓城寺五別所の一つで,正暦5年(994)に慶祚大阿闍梨によって開基, 本堂は安永5年(1776年)に再建されたとされている。往時には,境内に参詣者の群れをなし,そのためかぶっている笠が 敗れ脱げるほどであったと伝え,「はずれ笠の観音」・「笠ぬげ観音」として親しまれている。



2009年8月1日
園城寺別所(別院)・水観寺
本尊・薬師瑠璃光如来
圓城寺五別所の一つで,園城寺長吏名尊大僧正によって開基, 現在の本堂は明暦元年(1655)に再建。なお,本堂は昭和63年(1988)からの保存修理の際に現在地に移された。
本尊は土日祝日および毎月17日・18日に開扉



2008年12月17日
2004年8月29日
仁王門 金 堂

三井の晩鐘 閼伽井屋(天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉)

閼伽井屋の正面の左甚五郎作の龍 弁慶の引き摺り鐘

三重塔
一切経蔵(一切経を納める八角輪蔵)

潅頂堂・長日護摩堂
観音堂

観月舞台 毘沙門堂 鐘 楼

勧学院  通常は非公開,今回は特別公開。
 園城寺山内における講学の場(学問所)である。この勧学院という名称は南都・北嶺の諸大寺には必ず設けられる。
 現在の客殿は豊臣秀頼の命を受けた毛利輝元によって,慶長5年(1600)に再建され,国宝に指定されている。 また,障壁画は狩野光信によって描かれた。庭園も有名。

2004年8月29日

光浄院  通常は非公開,今回は特別公開。
 園城寺山内における迎賓館である。客殿は慶長6年(1601)に建立され,寝殿造りと書院造りが合体している。 国宝に指定されている。 また,障壁画は狩野山楽によって描かれた。庭園も有名。

2004年8月29日


客 殿